2012年1月29日 (日)

往年の国鉄名古屋駅

58週一運行の再開です。今回も前回に引き続いて国鉄時代の名古屋駅で撮った写真を選んでみました。毎度なんの変哲もない写真ですが、当時の雰囲気を味わって頂ければ幸いです。

それにしても、今こうしてみると『空が広い』ですね。西口の方は新幹線開業後もそんなに『開発』が進まず、この写真の時代はさすがに終戦直後建てたようなバラックは姿を消していたものの、それでも昭和30年代の雰囲気を色濃く残す町並みが続いており、これが、名古屋を称して『白い街』と言わしめた元凶ではないか、などともいわれていましたっけ。それが、バブルの頃からでしょうか、雨後の竹の子の如くビルが建ち並ぶようになって、今では随分と『空』が狭くなってしまいましたね。新幹線の車窓から見た『名古屋』の印象が良くなったのは確かなようですが。

国鉄時代の名古屋駅は、ご覧のとおり、なんとなく『のんびり』した雰囲気が漂っていますね。当時の近距離輸送はまさに名鉄・近鉄の独壇場で、名古屋人が『名駅』(国鉄名古屋駅)に用事があるときは遠出をするとき、と相場が決まっていました。今では近距離客も普通にJRを選択する時代ですから、完全にイメージが変わってしまいましたね。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2012年1月22日 (日)

国鉄381系と73系

4週一仕業を再開致します。今回は名鉄ネタから離れてこんな写真を選んでみました。
当時は『しなの』が381系化されてそれほど経っていない時期で、まだ少数(1往復程度?)ながらも、キハ181系のスジが残っていた時代ではないかと思います。

我々の世代では特急車の『JNR』マークは非常に馴染み深いもので、先頭車の側面には必ず付いていましたが、JR化後に外された直後は何だか殺風景な感じがしました。『分割民営化』直後、車体に貼り付けた『JR』マークはまさに『取って付けた』感じがしていましたね。中央(西)線の381系は最後までこの色を保っていましたが、他の特急車が塗り替えられて珍奇な色に変わっていくのを見て、国鉄時代の塗装は確かに派手さがないものの、この塗り分け以上のデザインは無かったように感じたものでした。(単に、他社のセンスが問題だったのかもしれませんが…)

手前の73系は戦後の国鉄・私鉄を問わず、その後の通勤車に多大な影響を与えた形式ですね。とはいえ、運用側の最も楽な『詰め込み』設計を極限まで追求した車両でしたから、言うなればその後遺症(?)が、今でもJR・私鉄(特に関東)各社に色濃く残ってしまいました。
名鉄が枇杷島のカーブ問題で早々に63型を放出したのは、車両定規を変更する機会を失った『副作用』を残したものの、戦前から拘った『転換クロス』の文化とは真っ向から対立するものでしたから、ある意味『必然』だったのかも知れませんね。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2012年1月15日 (日)

5200系美合急行【御礼52000count突破】

M5200週一運行の再開をしようとしましたら、お陰様で52000count突破を迎えておりました。御礼の『お約束』(?)としてはこれですね。5000系とは違って足回りもまだ辛うじて残っていますね。5300系化後も車籍は引き継いでいますから、実質的には最も『長生き』なSR車となります。

この5200系で採用された『FS-315』は、軸距(台車の前輪と後輪の中心間隔)2300mmと広いのが特徴でした。ビビり振動も登場(昭和30年初頭)当時のエアサス台車より少なく、長い軸距は蛇行動も抑制しましたから、低速域~高速域まで実に安定した走行をしていました。7000系はご承知の通り名鉄初のエアサス車ですが、5年足らずの間に技術が進化した結果でしょうね。

そう言えば、この5200系もモノコックボディーのはずなんですが、5000系から一転して角張った車体は、なかなか『同じ構造』とは思えないですね。謂わば極限まで『贅肉』を削った『超軽量』車体の5000系よりは若干(2.5t)増えていますが、5000系でも2次車はほぼ同じ重量(0.5t差)でしたから、やはり5000系(1次車)が『軽すぎた』のでしょうね、きっと。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2012年1月 8日 (日)

570形岐阜⇔忠節ダラ

M0573週一運用の再開です。現地では、昨年末にまとまった積雪が早々にあったようですね。敦賀~関ヶ原の辺りは高い山が限られていますから、北陸からの雪雲が流れて来ることも多く、西濃地方から名古屋辺りまでは積雪を伴う雪もそれほど珍しくありませんね。この写真を撮った時もまさにそんな感じで、ご覧のように岐阜市内でも薄らと雪化粧をしていました。
そういえば、大手私鉄では珍しい(唯一?)『耐雪ブレーキ』標準装備なのも、名鉄車両の特徴の一つですね。写真当時は、新車(6000系)でもそこまでしていなかったはずで、特に自動ブレーキ(AL・HL)車などは細心の注意が必要だったのでしょうね。

さて、写真の570形は岐阜市内線の最末期まで残っていましたので、馴染みの深い方も多いと思います。名鉄には珍しく帝国車両製で、都電6000形などと『共通設計』でしたから、さしずめ『路面標準車』となっていましたね。最晩年は平日朝夕のラッシュ(波動)輸送専用車のような感じでしたので、殆ど乗車機会がなかったのですが、この頃は当然の事ながら、忠節支線の主力車として活躍していました。

系統板をよく見ると『岐阜⇔忠節』になっていますね。記憶では忠節支線系統は新岐阜止まりが標準だったはずで、何本かに1本岐阜駅まで顔を出していたのか、通常とは違う臨時運用だったのか、その辺の詳細は私には不明です。とはいえ、折り返しや列車順序の入れ替えの関係など、往々にして『新岐阜』止まりでも岐阜駅まで行ったり、或いはその逆に『岐阜駅』表示でも新岐阜で折り返したりと、その時時で臨機応変な対応を行っていました。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2012年1月 1日 (日)

520形谷汲急行

M0525謹 賀 新 年
旧年中は当ブログをご愛顧賜りまして、誠に有難うございました。
本年も何卒宜しくお願い致します。

さて、新年第1号はこの写真から始めたいと思います。
現在の『谷汲山』はどんな感じなのかよく分かりませんが、当時はご覧のように、正月臨時ダイヤでは新岐阜~谷汲間に急行が設定されて、参詣客輸送に当たっていました。通常ダイヤでは『揖斐急行』のスジが丸々『谷汲急行』に変わっていましたので、この期間だけは黒野~本揖斐間が折り返しで接続する運用でした。

もっとも、この頃の『谷汲山』は自家用車で行くとなると、当時としては結構激しい渋滞が待ち構えており、駐車場も今より限られていましたので、目の前に見えていても中々辿り着けない感じでした。増してや、このように雪が降ると、いわゆる『山道』が続いていた旧道ではチェーンがないと難しく、確実に着く電車での参詣客が増えていたようです。ただ、谷汲駅からだとかなり歩くことになりますので、それが『玉にきず』でした…。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2011年12月31日 (土)

5000系佐屋ダラ【御礼51000count突破】

M5000更新が滞っているにも拘らず、何だかちょっと目を離していたら51000countを突破しておりました。お礼として適当なものをと探しておりましたら5000系が出て参りました。
50000countでは『お約束』(?)が果たせませんでしたので、順番があべこべとなりますが、何卒ご了承下さい。

この駅は脇に写った看板でお分かりですね。それがなければ危うく蒲郡と間違えそうになってしまいました…。
(記憶とは実にいい加減なものですね)
今、5000系と言えばご承知の通り、VVVF車全盛の時代にあるにも拘らず界磁チョッパを『再利用』した再生車ですね。でも、私の場合はまだまだこの『ダルマ』さんのイメージの方が強く残っており、やっぱり5000系は丸っこいイメージが抜け切れません。東急の新5000系はどことなく往年の『青ガエル』のイメージを彷彿とさせる外観を持っていますので、名鉄の新5000系にも一工夫を期待したのですが…。

さて、写真の『佐屋ダラ』は、蒲郡からの折り返しですね。この頃は津島線(須ヶ口)以降は全てダラ運用とされていた時代。平日朝に数本急行があった他は、確か特急も臨時以外はなかったと記憶しています。後の蒲郡・西尾~佐屋特急は、このスジの焼き直しですね。この頃には佐屋まで1時間ラウンドで特急(座席指定)が運転されようとは、想像すらできませんでした…。

最後になりましたが、今年一年、このブログをご愛顧賜りまして誠に有難うございました。
来年も変わらぬご厚情を賜りますよう、お願い申し上げます。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2011年12月25日 (日)

560形忠節⇔新岐阜ダラ

M0566週一の運行再開です。今回はこんな写真を選んでみました。数年前にこの通りを通った時には、この辺りはそんなに変わっていなかったのですが、私には随分と殺風景に(よく言えば空が広くさっぱりと)なったような感じがしました。原因は言わずもがなですね。

この写真だけで、正確に場所が特定できた方は、多分、岐阜市内線をくまなく追いかけていたのではないでしょうか?時折は鉄道雑誌などにこの周辺で撮った写真が載ることはあっても、近くに『大物』(有名撮影地)が控えていますので、意外と穴場になっていたのではないかと思います。とはいえ、ご覧のとおり、それなりの雰囲気が出る写真を撮るには車道からでないとちょっと厳しい感じですが…。(この写真は友人が運転する車内から撮影しています)

560形は今までそれほど多くご紹介していなかったようですね。元を質せば、北鉄金沢市内線からの『転籍組』ですね。3790系と言い、この560形に兄弟分の530形・550形など、傍系の路線廃止に伴って不要となった車両を親会社が引き取る例は、他の大手私鉄ではまず考えられれない事ですね。これも、多様な路線を持っていた名鉄ならではの『特徴』ですね。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2011年12月18日 (日)

【御礼50000count突破】510形揖斐⇔新岐阜急行

M513皆様方のご愛顧を頂きましたお陰様で、当ブログも50000count突破の節目を迎えることができました。と来れば『お約束』(?)の5000系なんでしょうが、新旧ともに適当な写真がありませんので、今回は510形でご勘弁下さい。

ここはどこか、名鉄好きの方ならお分かりですね。今も一応は、往時の面影を残したまま『保存』(?)されているようですが、赤錆びた線路に『主』のいない駅舎・ホームと車庫がぽつねんと残されている様子は、却ってうら淋しさを感じさせるだけで見るに堪えないものでした…。
何か計画があるのかどうか、名鉄が一体何を考えているのか、皆目私には見当もつきませんが、もし、何等かの形で『保存』を考えているようならば、早急にアクションを起こさなければ『朽ち果て』てしまう危険性が増すばかりですね。(私が見た時点でも半分そうなりかけていましたが…)

30年以上前に撮ったこの写真当時でさえ、駅舎やホーム上屋といい、写真にもある黒野分工場の建屋といい、結構『来て』いる建物ばかりで、よく言えば、それらと510形をはじめとする美濃電・旧名古屋鉄道の『生き残り』である車両群とが、まるでレトロなジオラマのような感じで展開していましたね。この雰囲気が、ファンにとっては堪らなかったのですが、冷静になって考えると、昭和一杯はおろか、平成に入っても暫くはそう変わりない風景が展開されていた訳で、全く以て『大手私鉄』らしからぬ雰囲気を漂わせていましたね。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2011年12月11日 (日)

3550系岡崎ダラ

M35513880週一運行を再開致しましょう。例によって、決して目新しい写真ではありませんが、今回はこんな写真を選んでみました。
ここは何処か、若い人ではちょっと想像がつかないのかも知れませんね。絶対に知っている駅で、今もこの建築中の構造物(もちろん、完成後)は、名鉄ファンなら誰でも一度は必ず目にしているはずなんですが。

この当時の名鉄はビッグプロジェクトが目白押しでしたね。写真を撮った年が『栄町開業』、その翌年は『豊田新線開業』に、更にその翌年には『知多新線全通』と、派手なイベントに隠れながらも、この駅を皮切りに『駅の近代化』が始まりました。それまでは、いかにも『地方私鉄の駅』然とした佇まいから、徐々に『大都市圏鉄道』へと脱皮を遂げていきましたね。

よく見ると、橋上駅舎工事中の間は暫くホームの上屋がなくなっていたようですね。今ではさすがに苦情の一つも出るのでしょうが、当時はまだまだその辺も、実に鷹揚な時代でした。そもそも、名鉄の駅は新名古屋などごく一部を除いてはホームの上屋もロクにない駅が多かったものですね。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2011年12月 4日 (日)

880形就役記念列車【御礼49000count突破】

M0880x2248000countの前で足踏みしているなと思っていたら、ちょっと目を離した隙に何だかあっという間に49000countまで通り越しておりました。
お礼と言いましても、今までとそう変わったものではありませんが、今回はこんな写真を選んでしました。

ここはどこか、大方ご存知ですね。今でもなお『駅』として残って(?)いますから、訪ねられた方も多いのではないでしょうか。
とはいえ、管理されている方曰く「何かと『モノ入り』で、駅舎の維持は結構大変」とのこと。何にしてもそうですが、後々まで維持・管理するのは並々ならぬご苦労があるようです。
せめて足繁く通って、なにがしかの『貢献』ができればいいのですが、地元でない身の上ではなかなかそうも行かず、遠くから声援するくらいが私には関の山なのが何とも歯がゆい限りです。

さて、本題に戻ってこの写真は今までも何度かご紹介した通り、880形のデビュー記念の時の写真です。当時はまだ『2DAYフリー』などもない時代。今よりも運賃(賃率)はかなり安かったとはいえ、貧乏学生に美濃までの乗車券は結構値の張るものでした。
名鉄もここぞとばかり『一儲け』を考えたのでしょうね、左側の名鉄が自ら装飾した記念列車は、新岐阜での『発車式』後は美濃に留置したまま動かさずにあり、撮影するためにはここまで来ないといけないように仕向けられていました。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

«検車区があった頃の太田川